武州世直し一揆 正覚寺で慰霊法要
江戸末期の慶応2年(1866年)6月、上名栗村を中心に発生した「武州世直し一揆」から今年で150年を迎え、飯能市上名栗の正覚寺(石井早苗住職)は6月12日、「あれから150年“武州世直し一揆を偲ぶ会”」を開く。
一揆に関わった人々の慰霊法要をはじめ、講話や一揆の中心人物の墓前を訪ねるなどして、不作や米価の高騰に苦しみ、「世直し」の旗印を掲げて立ち上がった当時の村人の姿に思いを馳せる。
米価の高騰などを受けて巻き起こった一揆の発端を開いたのは、正覚寺の檀信徒たち。檀信徒頭取で大工の島田紋次郎、桶職人の新井豊五郎の2人を中心に上名栗村の農民たちが立ち上がり、近隣の窮民に呼びかけて一斉蜂起した。
その年は5月に雪が降るなど天候不順に見舞われ、豊作は見込めない状況。開港以来、米価の異常な高騰が起こり、林業を主な生業とし米などの食料を飯能から買い入れて生活していた上名栗村の人々は困窮していたという。
6月13日に蜂起した一揆勢は不動渕に集まり、村役人の制止を振り切って飯能へ向かい、穀物商4軒を打ち壊し、その後周辺の村を巻き込みながら移動、入間や所沢の村々へと押し寄せた。
農民たちの要求は主に米価・物価の引き下げ、質品と借用証文の無償返還、質地と質地証文の返還、施米・施金などで、上名栗村の名主や豪農に対しても施金の要求が行われた。
この一揆は蜂起から鎮圧まで、わずか7日間のうちに関東一円に広がり、約200か村、十数万人が参加するまでに発展した。
鎮圧後、首謀者の捜索が始まり、島田紋次郎、新井豊五郎の2人は捕らえられ、厳しい詮議を受けた。村では2人の赦免嘆願運動が展開されたが、紋次郎は10月に42歳、豊五郎は11月に44歳でいずれも牢死した。2人の墓は正覚寺近くにある。
多くの犠牲者や損害を出しながら民衆が精一杯の抵抗を表したこの一揆は、幕末最大規模の一揆として、幕藩体制や社会に大きな影響を与え、名栗の歴史を語る上で欠くことのできない事件として刻まれている。
村のリーダーたちが米価の高騰に苦しむ人々をいかに救うかを協議し、一揆の決断を下した拠点となったのが、古刹の正覚寺。
同寺は創建500年以上の歴史を持ち、現在は一般向けの宿泊施設「宿坊」で知られ、個人をはじめ学生や団体の合宿、企業の研修などの利用があり、座禅や精進料理の作法を通して集中力を養い、自分自身を見つめ直している。
150年の節目に合わせ、偲ぶ会を企画した石井住職は「現代は飽食の時代だが、わずか150年前の村人たちは、日々の食事にも困る苦しい生活を送っていた。当時の世相や人々の暮らしを振り返り、衣食住を見直すとともに、このような事が二度と起きないよう、平和を考えるきっかけとなれば」と話している。
偲ぶ会は午前10時から。午前中は本堂で慰霊法要を行った後、石井住職が「正覚寺と武州世直し一揆」、市文化財保護審議委員の島田稔さんが「名栗の歴史と武州世直し一揆」と題して講話、その後、紋次郎と豊五郎の墓を訪ねる。昼食の精進料理を囲み、午後は「蘇る歌声喫茶」として「松原ふるさとバンド」を招き、懐かしい歌を通して参加者同士が交流を深める。
参加費1600円(昼食代含む)、定員50人。申し込み、問い合わせは正覚寺979・0235へ。