高麗神社で「高麗郡偉人伝」 地域の偉人にスポット
日高市新堀の高麗神社(高麗文康宮司)参集殿2階大広間で21日まで、第6回高麗郡偉人伝「“幕末・明治期に活躍した業績を振り返る”蘭方医・安藤文澤と外交官・安藤太郎父子特別展」が開かれている。
毛呂山町出身で、江戸後期に活躍した蘭方医の安藤文澤(ぶんたく)(1807~1872年)、その長男で明治期に外交官として活躍した安藤太郎(1846~1924年)父子の功績や時代背景などをパネルや資料の展示を通して紹介している。
安藤文澤は、文化4年(1807年)に阿諏訪村(現・毛呂山町)に生まれ、名主の跡取りとして幼少期より漢学を学び、俳句にも没頭したという。
青年期になると、医師を志して番匠村(現・ときがわ町)の蘭方医・小室元長の医塾「如達堂」に入門。研鑽を積み江戸四谷に医院を開業し、23歳の若さで鳥羽藩の江戸藩邸の詰侍医として召し抱えられた。
文澤のもとを訪ねる入門者も多く、後に御茶ノ水に順天堂病院を開く佐藤尚中など近代医学史に名を残す人物もいた。また、幕臣の軍艦奉行だった勝海舟とも交流があったという。
長年、死に至る病として恐れられていた天然痘を撲滅するため、種痘の普及に心血を注ぎ、当時、種痘を西洋の魔術などと言い信用しない者も多い中、普及を促すため、実弟の東作と協力して一族に種痘を施したという。嘉永3年には鳥羽藩などで、領内の子どもたちに牛痘法の接種活動を行った。
明治5年(1872年)66歳で没し、四谷医院近くの理性寺(現在は杉並区)に葬られた。
安藤太郎は、弘化3年(1846)江戸四谷で文澤の長男として生まれ、少年期は漢学や蘭学を学び、青年期には英語を修得、幕府の海軍操練所の生徒となり坂本龍馬などとも親交を持った。
その後、騎兵士官になったが、23歳の時、榎本武揚と行動を共にし、函館・五稜郭などで官軍と戦った。戊辰戦争後、1年間獄につながれたが、出獄後、語学の才能を買われ、岩倉具視使節団の4等書記官(通訳)として米国と欧州各国を巡った。
その後、外務省の外交官として香港副領事・上海総領事・ハワイ総領事などを歴任。ハワイ総領事の時、飲酒や博打などで荒れていた日本人移民の生活を牧師の協力を得て改善、教会を設立し、酒豪だった自らも禁酒を決意した。
52歳で役人を引退し、翌年、日本禁酒同盟の初代会長に就任し、禁酒雑誌を20年以上発行、執筆や演説で禁酒運動を展開した。
麻布の安藤家の邸宅は教会(現・安藤記念教会)となり、太郎の遺品が今も守り続けられている。
展示では、激動の幕末から明治期へと時代を駆け抜けた父子の時代背景や、文澤氏の蘭方医学と人との出会い、天然痘との戦い、地域医療への貢献、また、太郎氏の函館戦争から外交官への歩み、そして大酒豪から禁酒運動家への変貌など、それぞれの歩んだ道を紹介している。
展示会場内では19日、21日のいずれも午後2時頃より30分程度、切り絵紙芝居「毛呂山の医仁(種痘医)安藤文澤」(毛呂山町立図書館所蔵)の上演を行う。参加自由。
高麗神社が開催する高麗郡偉人伝は、平成28年に建郡1300年を迎えた高麗郡に関心を深めてもらおうと、高麗郡エリア(飯能・日高・鶴ヶ島・川越・狭山・入間・毛呂山)で活躍した偉人を紹介する企画として28年から行っており、今回で6回目。
問い合わせは、高麗神社989・1403へ。