貴重な「飯能戦争」絵図 40年前、地元骨董商から購入
古写真収集や郷土史研究を続けている飯能市柳町の大野哲夫さんが、40年前に地元の骨董商から購入した「飯能戦争」の絵図を本紙に紹介した。
絵図には、慶応4年(1868年)5月23日、能仁寺、智観寺周辺で新政府軍と戦いを繰り広げる振武軍、兵士を率いる渋沢成一郎、渋沢平九郎、尾高惇忠らの姿が描かれ、大野さんは「飯能戦争の絵図というのは珍しく、貴重ではないか」と話している。
額に入れられた絵図は縦40センチ・横80センチ。大野さんは40年ほど前、飯能の骨董商から「いい絵がある」と紹介され、一目見て気に入り購入。その後、作者を調べたが不明。「今から50年ほど前に描かれたものではないか」と推察する。
長年自宅に保管してきたが、現在放送中の大河ドラマ「青天を衝け」で飯能戦争が登場したこともあり、「見てもらいたい」と本紙に連絡した。
飯能戦争は、上野の彰義隊を離れた渋沢成一郎を首領とし、彰義隊脱退者で結成された振武軍と新政府軍による戦い。
田無から箱根ヶ崎を経て飯能に入った振武軍は、能仁寺など6つの寺に駐屯。飯能に侵攻した新政府軍と智観寺、聖天林、能仁寺周辺で戦いを繰り広げたが、半日で敗れた。
本営となった能仁寺は砲弾を受け焼失、振武軍の兵たちは散り散りに敗走し、渋沢成一郎と尾高惇忠は逃れることができたが、2人とは別の道を行った渋沢平九郎は顔振峠を越えて越生の黒山三滝へ向かい、交戦の末、自害して果てた。
絵図には、旗を掲げて新政府軍と戦いを繰り広げる振武軍と、渋沢成一郎、渋沢平九郎、尾高惇忠の渋沢一門や渡辺志津摩、高木元三郎、高松小三郎などの姿が描かれている。
絵図の左下には「慶応四年五月二十三日飯能振武軍攻撃」「東原築峰堂」の文字、落款印が確認できる。
「渋沢一門や渡辺志津摩は知っていたが、高木元三郎、高松小三郎は当初、どのような人物か分からなかった。その後の調べで、飯能戦争に敗れた後、部下を連れて路用金を借りるために秩父の三峰神社に立ち寄ったことが分かった」と大野さん。
大河ドラマでは渋沢平九郎の最期が描かれたばかり。大野さんは「飯能戦争の絵図というのは貴重。関係者と相談し、皆さんに見てもらえる機会を設けたい」と話している。