沢辺瀞壱氏に旭日中綬章 地方自治への貢献評価

受賞した旭日中綬章を首から下げる沢辺さん(勲章伝達式・総務省)

 「この誉 青葉よ風よ子に孫に」と詠み、「下手ですけどね、どうですか」と柔和な笑顔で問い掛けるのは、前市長で飯能自動車学校社長の沢辺瀞壱さん(79)。沢辺さんは、令和初となる春の叙勲で地方自治への功労を称えられ旭日中綬章を受章、その喜びからふと頭に浮かんだ俳句と、沢辺さんは言う。中綬章は、今回県民が得た褒章では最高位で、沢辺さんを含めても5人だけ。沢辺さんに、受賞に至った地方自治への貢献を中心に話を聞き、その人となりを紹介する。

 「(受章を)自分のことのように喜んでくれる人が結構いてね、その人達の笑顔を見ていると受章した喜びが実感としてこみ上げてきました」と、沢辺さんは静かに語る。

 「目立った功績がある訳ではありません。(人生を振り返り思い浮かぶことは)選挙ですね。それも9回も。大きな選挙ばかりで良く覚えていますが、私と一緒に寝ずに一生懸命やってくれた人が随分います。何の得がある訳でもないのに。だけど今年の正月から多くの人が亡くなりました。勲章を貰えるまで生きていて欲しかった。泣いて喜んでくれたと思います」と、しみじみと思いを巡らす。

 沢辺さんは、昭和15年4月、小学校長として朝鮮半島に赴任していた父・浩さんの二男として出生。戦後の混乱の中、飯能市岩沢に引き上げた。

 「5歳で引き上げ、母(まささん)も5歳のときに亡くなり、農地解放などで親は苦労しましたが、皆貧しく自分だけ苦労したとは思いません」と、激動の幼年時代を淡々と振り返る。

 加治小、飯能一中、独協高校、中央大学法学部卒業。昭和39年、埼玉県庁に就職。県では母子衛生を担当。

 「法律を学んでいたので、県会などもよく理解でき、市長のときも、トップとして判断し対応できました」と、沢辺さんは語る。調停委員も10年務めている。

 41年、県庁を辞め、浩さんが経営していた飯能自動車学校に就職。

 飯能青年会議所理事長などを歴任し、60年、45歳になる年、飯能市議会議員選挙に立候補。2214票を獲得しトップ当選した。

 「青年会議所に入り実現できるか分からないが発言したり行動していたときに、地域の皆の推薦を受けました」と、当時を思い返す。

 飯能市議(1期)、市長選出馬(落選)、県議(3期)を経て、平成13年8月、市長選に再出馬し当選を果たし、3期務めた。

 沢辺さんは、「行財政改革の推進」を公約の一つに掲げ、初登庁の訓示でも、「早急に財政の健全化に取り組まなければならない。民間活力導入による事務委託、行政の効率化、スリム化など真剣に」などと語り、市職員に覚悟を訴えた。

 「当時はバブル崩壊の後で、自由に使えるお金がなく厳しかったが、会社は財政が悪くなれば潰れる。市町村も健全な土台があってこそ成り立ちます。財政改革しました、ということは、お金を出さなかったり、上手い物を食わせなかった、ということで、表に宣伝材料にはなりませんが」と、沢辺さんは当時の胸の内を語りながらも、「無駄が多かったそれまでとは行政のやり方を変え、民間の力を借りながら指定管理者制度への移行」など改革を断行。

 「市町村でも国でも、財政を無視すると簡単に戦争ができます。昔の戦争前の軍隊は、議会で否決した予算も勅令で認め膨張を続けた。暴走は国民にとって幸せではなく、暴走への歯止めに一番効果があるのが、財政をしっかりやることです。市長になったときは、金がなく困った時代ですが、(行財政改革は)責任者の責任と思ったからです」と語り、財政の重要性と、その思いを明かした。

 また当時バブルの後遺症によるものか、「市長になったとき、街の人皆に自信がなかった。これではいけないと思い、ツーデーマーチ(平成15年5月実施)、奥むさし駅伝の復活(同年)、(年の瀬の)第9の合唱(17年より)を手掛け、飯能まつりと合わせて4大イベントと位置づけ、力を入れました。市民自らが力を合わせて何かを作り上げていくということが、郷土愛につながります」と、推進した施策の狙いを語った。

 「どこの都道府県が住みやすいかという統計(新国民生活指標)で埼玉が最下位でした。しかし、道路や学校等も必要だが、住みやすい街というのは、隣近所の付き合いがあったり、コミュニティが存在するところ、そう主張しましたが、当時の考えには合わなかったようです」と、先見の明があったことを語った。

 そのほか、沢辺さんは、エコツーリズム(16年に環境省が進めるエコツーリズム推進モデル事業に応募、認定第1号に)を進め、森林文化都市を宣言(17年4月)した。

 「近隣市にない飯能市らしいものを一つだけ、ということで森林文化都市宣言をしました。また、林野庁が森林・林業再生プランを策定し、実行段階まで進んでいたように思うのですが。全国的な傾向として建物の耐火性などの点から林業が一層駄目になった気がします」と、現状を憂う。

 「再生プランが全ていいと思わないが、いい所は残して、利益だけではなく100年、1000年の長期スパンで、林業施策を進めるべきです」と語る。

 市長時代、多くの実績を残した沢辺さんだが、森や林業を始め市の行く末への思いは、まだまだ熱いものがあるようだ。

 市長退任後、沢辺さんは、海外を始め旅行を楽しみ、今は、俳句とゴルフを趣味にしている。そのほか、母校(中大)の生涯学習講座を受講し、毎週八王子市まで憲法を勉強しに行くほか、興味があるテーマであれば講演会などにも、よく出かけるという。

 俳句は、大学の同期会に行くようになってから始めたが、「新幹線に乗っているときなども、どんどん思いつきます」と、楽しそうに話し作品を次々に披露。

 ゴルフは「74歳から始めましたが月に4、5回行くことも。健康第一といいますが、この歳になると他には何もいりません」と、沢辺さんは健康そのもの。

 ツーデーマーチにも毎年大学同期のメンバーと参加しており、今年も11人で歩く予定(取材日は開催日直前)。ゴールは自宅に設定し、うどんと天ぷらに舌鼓を打つ計画という。

 褒章への祝いでも、俳句でも、ゴルフでも、ツーデーマーチでも、沢辺さんは、大学の友人を始め常に多くの人に囲まれており、また子ども5人に、孫8人。

 「大勢の人のお陰で、今も何かをしようとすると、協力してくれる人が結構いてくれるのでありがたい」と、沢辺さんはしみじみと語り、周囲の人たちの感謝を何度も口にした。

 沢辺さんは、明治天皇を尊敬し明治神宮崇敬会に所属している。

 「150年前、日本を独立した国家に導いたのはたいしたものです。それをめちゃくちゃにした軍人が良くない」と、持論を語り、令和時代に望むことは、「(世界情勢などを考えると)容易なことではないと思いますが楽な道を選ばず、昔からある日本、日本人の様々な美質を維持しながら平和で争いのない国を作ってほしい」と、これからの日本人にエールを送った。 

 現在、妻の早苗さんと二人世帯だが、近所に多くの子どもたちの家族が暮らす。