郷土の偉人・高林謙三 新たに肖像写真や家族の写真
日高市に生まれ、高林式製茶機械を発明するなど日本の茶業界発展に大きく貢献した高林謙三(1832~1901年)の肖像写真とその家族の写真計10点が、同市北平沢にある謙三の父・小久保忠吾の生家から新たに見つかった。郷土史研究家で、謙三やその弟で多くの医学書を翻訳した桑田衡平の足跡を調べている北平沢の入江武男さん(71)が小久保家の子孫から写真の存在を聞き、預かった。新たに見つかった謙三の肖像写真は晩年のものと見られ、このほかの写真には、妻や娘、孫などが写っていた。
入江さんによると、これらの写真は、小久保家の子孫で東北大学教授を務めた小久保清治氏(1889~1971年)のアルバムに収められていた。高林謙三の肖像写真の傍らには「故高林謙三 当七十歳 天保三年六月生 明治三十四年四月一日去」と記され、このほかの写真には、妻の濱子、長女の秀子、秀子の夫・由松、孫のよし子と見られる人物が写っていた。
「これまで高林謙三の写真は、川越市や入間市の博物館にも展示されている、紋付の羽織を着た肖像写真1枚しか存在しないと聞いていた」と入江さん。写真に添えられた記述や謙三に関する資料と照らし合わせ、謙三の肖像写真は「明治31年、67歳頃の写真ではないか」。また、孫を抱く妻や娘夫婦などの家族の写真は明治31~36年頃の間に撮られたものと推察している。
高林謙三は天保3年(1832年)高麗郡平沢村(現北平沢)に生まれ、初名は小久保健二郎。国学と医学、さらに西洋医学を学び、文久2年(1862年)に川越藩主・松平大和守の侍医に登用され活躍、明治に入り高林に改姓した。
その後、開港による輸入増に対し地場産業の茶の振興に力を注ごうと、医業で蓄えた私財を投じ、当時、日本からの主な輸出品となっていた緑茶の生産性を高めるため、従来の手揉み製茶法に代わる3種の製茶機械を発明。民間で最初の特許を取得した。
最後に完成させた茶葉粗揉機は従来のものに比べて4倍の製茶能力を持ち、味や香りも損なわないという画期的なもので、基本設計は100年以上が過ぎた現在も活用されている。
晩年は静岡県へ移り、松下工場の設立や製茶機械の開発に尽力したが、脳溢血で倒れ、明治34年(1901年)に70歳で死去した。
墓所は川越市にあり、日高市内には郷土の偉人として、石碑や銅像が建立されている。
小久保家の子孫から写真を預かった入江さんは「謙三の写真だけではなく、妻の濱子や孫のよし子の写真が父の生家に存在していたことは予想できなかった。高林家が小久保家と親密な間柄だったことが分かる。貴重な発見で謙三の歴史に付け加える事項が増えた」と話している。