高麗人移住が明らかに 飯能市郷土館で特別展
飯能は高麗人が開拓した土地だった―高麗群建郡1300年記念特別展「高麗人集結―霊亀2年にやってきた開拓者たち―」が12月4日まで、飯能市郷土館(同市飯能、柳戸信吾館長)で、開かれている。
現在の飯能・日高周辺地域の本格的な開拓が始まったのは、古代の716(霊亀2)年に、高麗郡が置かれたのが起源とみられている。2016年は、それから1300年。特別展は、この記念すべき年に、当時の高麗郡の様子などを、出土物と最新の調査結果から、両市民ばかりでなく広く紹介するために企画されたもの。
今回の展示の目玉は、飯能市芦苅場の堂ノ根遺跡にある市内最大級の住居跡から出土した、須恵器6点と、土師器3点。いずれも同市指定文化財。
須恵器は、青黒い色をした硬い焼き物。『日本書記』などの記述から、朝鮮半島からの帰化人によって作られたものと考えられている。
芦苅場で見つかった須恵器には、金雲母が含まれていた。金雲母は、土などに含まれた黄色っぽい鉱物で、金雲母を含む土は、限られたところにしかなく、関東では、茨城県の新治郡付近だけで、飯能市付近では見られない土。このことから、飯能市芦苅場の住居跡で見つかった須恵器は、茨城県から移住した古代人が持ち込んだ可能性が高くなった。さらに、一緒に出土した土師器の甕(かめ)なども、茨城県で出土したものと比較展示し、形状や作り方から、やはり茨城県付近で作られ出土しているものと同型ということが見て分かる展示になっている。
須恵器はふたの形状から、7世紀後半から8世紀初めに作られたことも分かっている。高麗郡は、茨城県をはじめ、関東周辺に住んでいた高麗人など朝鮮半島にルーツを持つ人たちを、現在の日高・飯能両市付近に集団移住させて、716年に建郡したという古文書の記述の確かさが、よりはっきりした。
また、同市芦苅場の張摩久保遺跡からは、銅器が3点出土していたが、この時代に、東日本で銅椀が、一ヶ所から3点も見つかることは珍しい。飯能市文化財審議委員の須田勉さんらの努力により、この銅椀に含まれる銅は、朝鮮半島や中国由来であることが分かった。この地域出身者を先祖に持つ渡来系の高麗人が、住んでいた証拠といえる。
高麗郡の中でも、同地域は、上総郷(かみつふさごう)の中心地域と考えられており、上総(かずさ)、現在の千葉県中部地域に住んでいた高麗人が多く移り住んだらしい。
また、高麗郡の中心地域であった日高市所有の貴重な多くの出土品が、飯能市内では初めて展示されている。
官人のベルト飾りの丸鞆(まるとも・石製)、役人や僧が使用し、関東では武蔵国府があった府中でしか出土例がない鳥型硯など、興味深い遺物を見ることができる。
東松山市在住の会社の同僚と、この日訪れた同市仲町在住の主婦・白原さんは、郷土館学芸員の村上達哉さんの説明に熱心に耳を傾けていた。
「手掘りで、ここまで発掘するのは、大変ではないですか」「こんな破片だけで復元できるのですか」などと、興味しんしんの様子だった。
入場無料。火~日曜日午前9時~午後5時、11月24日は休館。
問い合わせは同郷土館972・1414へ。
高麗郡建郡1300年記念事業として、11月12日に開催される日高市民まつりで、高句麗の衣装を着て参加する『にじのパレード』(主催・日高市)が催されるほか、12月18日には、『第4回高麗郡建郡1300年歴史シンポジウム』(主催・日高市、飯能市など後援)も行われる。