【連載企画】我が行路⑤ 「母子衛生に従事」 沢辺瀞壱(元飯能市長)

県庁時代の筆者

 昭和39年4月に埼玉県庁職員として就職した。東京オリンピックが10月に開催された年である。

 上級職行政職という身分であった。民間企業は景気が良くて給料もよかったが、県庁はその面で人気はなかったが、しかし、それなりに100人以上の同期入庁者がいた。

 飯能からの同期としては、東京外語大を卒業された加藤幹夫さんがいた。が、彼は1年で東京都庁に転籍され、後に北区収入役に出世し、私の市長時代には飯能市行政改革推進委員をお願いした。

 私の配属先は衛生部の医務課というところで、担当は母子衛生の育成医療であった。

 同じ医務課には立教大学出身で、後に「人間の証明」などの小説で有名作家になる熊谷出身の森村誠一さんの実弟もいたが、自治省にスカウトされ、やはり転籍した。

 私の仕事は障害を持った子どもの医療費の補助をするという係で、保健所を通して上がってきた申請を処理した。

 当時、衛生部の大きな目標は乳児死亡率を低下させることであった。「我が国の乳児死亡率は、年々減少しているとはいえ、欧米に比べると依然高率である」というのが、なにかにつけて挨拶の枕詞であった。

 その頃の埼玉県は人口が270万人(現在は780万人に膨張。全国第5位)で、県知事は栗原浩さんだった。埼玉県は、広大な農地を有する農業県で、私は県東部の田園地帯の一面の田んぼと縦横に張り巡らされた水路の風景を見て圧倒されたのを覚えている。

 工業は川口の鋳物工場が有名で、他に大きな工業地帯はなかった。昭和22年のキャサリーン台風の爪痕がまだ県内には残っていた。

 市町村が運営していた母子センター(今はない)にも関わった。また、新しい仕事として心臓弁膜の手術や筋ジストロフィーの治療への補助制度がスタートしたのだが、この事務についても私が担当した。

 障害を持った子どもたちの実態や、親たちの気持ちに接する機会も増え、知らないことを知るうちに、私は仕事の重さを感じてくるようになっていた。

 ただ、当時の仕事の道具は、謄写版のガリ版切りとそろばんだったので、随分と苦労した。そろばんに悪戦苦闘している私を見かねて先輩が「貸してみ」といって、あっという間にはじいてくれたこともあった。

 仕事の関係でお世話になったのが、県下の保健所の保健婦さんだったが、当時の私を知る元保健婦さんが今でも飯能にいらして、懐かしい次第である。

 衛生部の大きな仕事は、国民病といわれた結核撲滅であり、県の大きな予算と人員を投じて努力していたが、私のいた頃にはかなり終息に向かっていた。衛生部には、公衆衛生課というのがあり、さらにその中に公害を担当する4人くらいの係があったが、それが後の環境部という大きな組織に発展していくことになるのだが、知る由も無かった。

 今と違って、飯能から浦和へは交通が不便で通勤が大変だったから、途中から大宮にいた独協高校時代の親友である山田君の家に下宿させてもらった。ただ、負担をかけては悪いので、月曜の朝に自宅から県庁に出勤し、水曜と土曜に飯能の自宅に帰るという生活パターンだった。

 衛生部の部長は厚生省からのキャリアポストで岩田さんという方だった。私の直接上司は課長待遇の西島礼先生(医師)で、私の母満さの川越女学校の同級生だったということも奇遇であった。

 厚生省に書類を届けることもあり、そんな日はワクワクした。なぜかというと、出張ついでに日比谷公園の近くの映画館に寄れるからである。

 寄り道して勤務中にこっそり映画観賞をしていたなんて、仲間内にも口に出しては到底言えない。出張費を貰って、映画を見て県庁に帰って来る。私はそんなことをこっそりやっていた。 

 ところが、どういうわけだか、内緒にしているのに私が映画を見てきたことを職場の皆がお見通しだよなんていう顔をしている。特に庶務係の人なんか、ニヤニヤっとして「面白かった?」と鎌を掛けてきたりした。見透かされていたのである。のんびりしているというか、思い起こすと良い時代であった。

 土曜日は、午後が休みという「半ドン」で、結構楽しかった。午前中に仕事を終えた土曜日は午後に野球の試合なんかもした。上手い下手は別として、年齢が若かったから試合にはよく引っ張り出された。楽しい職場であった。

 ところが、勤務して間もなく2年が経過しようとした時、父が交通事故に遭い、負傷した。大宮の治水橋付近で、後部座席に乗っていたのだが、トラックに衝突したはずみでフロントのガラスを突き破り、頭に大けがを負った。幸い、命に別条なかったが、弱気になってしまったようで、私に早く県庁を辞めて、家に帰ってこいと言うようになった。

 私は、せっかく慣れた職場で気に入っていたので辞めることは誠に残念だったが、老齢の父のことや自動車学校のことを考え、退職することを決め、上司の了解を得て県庁を後にした。機会があれば、戻りたいなという気持ちを残しての退職であった。

 県庁勤めは2年と短い期間であったが、同期や多くの人たちと人間関係を結ぶことができたのは、大きな宝だった。

 「県庁で身をもって体験した組織運営の要諦である予算の立て方、人事管理、将来予測の重要性や間違ってはいけない日常の業務など会社経営に役立つと思うよ」。

 退職にあたり、こんなことを言ってくれる先輩もいた。