【連載企画】我が行路② 「母の死、小学校入学」 沢辺瀞壱(元飯能市長)
終戦により、母、姉、私は朝鮮から日本へ帰ることとなった。
敗戦で混乱の時代に入った日本。重苦しいというか、それまでと周囲の雰囲気が一変したのを幼心に感じていたが、付き合っていた近所の人たちとの関係は、以前と全く変わらず、皆一様に親切だった。帰国の荷づくりを手伝ってくれたり、「これ食べなさい」と分けてくれたりした。
父は出征していたので、3人で乗船し、下関港へ向かった。何か、大変なことが待ち受けていそうな気がして、不安な私は母の手をずっと握っていた。
一昼夜船に揺られ、下関へ到着した。港には人が溢れていた。私は気がつかなかったのだが、姉の話ではお寺の奥さんを中心とした婦人会のような人たちが、港で焚き出しをしていて、「お帰りなさい」「ご苦労様でした」と引き揚げ者を歓迎してくれたという。
そこから列車に乗り込み、飯能まで帰ることになるのだが、道中の車内は、足の踏み場もないほど混み、熱気が充満というか、むんむんしていた。
すし詰め状態の列車に何時間もかけて乗っているわけだから、当然のように生理現象が起こる。が、どうにも身動きがとれない。そんな私の様子を見かねてか、停車したら若い学生のような人が、私を抱っこして外に出してくれ、小便をさせてくれた。混沌とした最中ではあったが、助け合い精神は健在であったのだろうと思う。
弟に任せて、父は沢辺家を出ていたので、飯能に着いて私たちは朝鮮へ渡る前に住んでいた柳原の自宅で荷をほどいた。
住居は、今の久下六道線の一本南側の道路に面しており、その家には今、私の従兄弟が住んでいる。
その後、父も戦地から引き揚げ、やっとの思いで飯能へ帰ってきた。ところが、沢辺家を託していた弟が戦死し、住んでいるのは祖父母だけになってしまったということもあり、祖父母は父に戻って来るよう盛んに催促する。喧嘩して家を飛び出してしまった父だったが、仕方なく再び実家に入り、跡を継ぐこととなった。秋のことだった。
ところで、前述したように戦後の農地開放で沢辺家が所有する土地は目減りした。残った土地を守り、維持するため、父は教師を辞め、慣れない手で鍬や鋤を持った。つくづく、大変な仕事だったと思う。
父は農作業が本当に嫌いで、農家以外なら何でもいいと言っていた。それでいろいろなことをやったわけだが、自動車学校の経営だけは上手く行った。
農業が性に合わなかった父が自動車教習所を自宅南側の土地に正式に開所したのは、昭和37年2月。県公安委員会指定教習所として県内9番目の施設だった。当時は家庭に車が普及し始めた、まさに黎明期。当初、経営はあまり楽ではなかったが、車社会の到来という運もあり、その後の業績は右肩上がりだった。
大学を卒業し、埼玉県庁に就職したものの、父が交通事故に遭い、代わって学校の経営を要請された私は2年で退職し、飯能自動車学校の経営に乗り出した。その当時の様子については、後述する。
さて、日本へ引き揚げた翌年に話を戻す。2月のことだった。沢辺家に悲しい出来事が起こった。なんと、母満さが37歳という若さでこの世を去ってしまったのだ。私は5歳だった。
母は体が丈夫な方ではなかったので、よくは分からないが、今考えると朝鮮からの引き揚げや不慣れな農家生活での過労、食糧事情などで体が損なわれてしまったのだろう。葬式は貧しいもので、私は不安な気持ちでいっぱいだった。
「六・三・三・四制」を定めた学校教育法が公布された昭和22年の4月、私は飯能町立加治小学校に入学する。周囲には疎開してきた子や恵まれない境遇の子たちが大勢いた。私は皆と一緒になって校庭で遊び、休みの日は入間川で魚取りをしたり、阿須山や自宅近くの野を駆け回ったりして毎日を送っていた。
どこの子もそうだったが、私も家で勉強をほとんどしなかった。自分が勉強できる子なのか、できないのか分からぬまま過ごした。