江戸後期の「飯能村」大絵図 有形文化財指定へ向け審議
飯能市文化財保護審議委員会=保護審=(大野宜白委員長)が20日、同市富士見地区行政センターで開かれ、文政8年(1825)から天保13年(1842)までの間に作成された江戸後期の「飯能村絵図」について、市有形文化財(歴史資料)としての指定が相応しいかどうか、審議した。市教育委員会の諮問に応じたもの。
同地図は江戸時代の飯能村(概ね東側県立飯能高校、西側多峯主山、南側入間川、北側日高市境付近)の田畑、屋敷地、道路、水路などが600分の1の縮尺で描かれており、縦3メートル15センチ、横3メートル78センチの大きさ。市教育委員会が所有し、郷土館で管理されている。昭和47年、飯能市役所庁舎が中央公民館から現在地に移転する際に偶然発見されたものといわれている。
この日の会合では、実物を4分の1にスケールダウンしたカラーコピーの絵図をテーブルに広げ、記載事項を確認しながら審議が進められた。
市教委の説明によると、絵図の製作に関わったのは、飯能村名主の大河原又右衛門と高麗群楡木村名主の清兵衛。文政8年、製作に着手、3年後の11年に元となる草稿が作成され、その後、修正を加えて17年後の天保13年に完成したことが、絵図中に記されている文言から分かっている。
川や沢は青、道は赤、畑は黄、水田は灰、山は緑、屋敷地は白色で塗り分けられ、絵図の目的は不明なものの、現在の大通りや能仁寺、諏訪明神社(現諏訪八幡神社)愛宕山(現天覧山)、多峯主の様子が忠実、精緻に描かれている。また、地番や所有者が土地一筆ごとに記されている。
愛宕山と多峯主山の間の谷津を利用した水田、緑色に着色された山の部分には、牛馬の飼料にする秣(まぐさ)を刈り取る秣野や、杭や木材などを産出するための杭木(くいぎ)山などの文字、部分的にマツと思われる樹木を描き分けているなど、絵図からは当時の自然環境を推測することもできる。
さらに、絵図では能仁寺西側に記されている小字「松井戸」に屋敷地が存在していることも確認でき、このことから一帯が飯能村の中心的な場所だったことが伺える。
保護審では、中世の頃の飯能村で中心的に栄えた場所が松井戸であり、「近世になって大通りに『縄市』(江戸時代に毎月6回開かれていた炭や縄、薪などの市)が開かれるようになり、村の中心が大通りの方向に移動していったのでは」と見る意見も出た。
市教委は、現在の市の名称として付けられている飯能村の近世後期の様子を知ることができる絵図であり、その精細さは市に残されている他の絵図と比較しても類を見ないと指摘。「絵図からは土地利用の状況を知ることができ、江戸後期の飯能村の様子が分かる唯一のものといってよい」としている。
保護審は、次年度6月の会合でリニューアルした郷土館で絵図を見学するとともに、有形文化財に指定することが妥当かどうか答申する予定。