萩野住職との別れ惜しむ 長嶋氏、原氏が焼香
[祭壇の前で焼香を行い、別れを惜しむ長嶋氏(右)と原氏]
1月29日に75歳で逝去した能仁寺(飯能市飯能・曹洞宗)住職の萩野映明氏の通夜が9日、告別式が10日、いずれも同寺で営まれ、檀信徒や各界関係者ら大勢の弔問客が参列した。
通夜には萩野氏と親交のある読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏、同球団前監督の原辰徳氏が駆けつけ、大久保勝市長が弔辞を読み、別れを惜しんだ。
萩野氏は東京都台東区に生まれ、昭和39年報知新聞社に入社。記者として勤務し長嶋氏や王貞治氏らと親交があった。同47年に同新聞社を退社、同48年に能仁寺に入山し、平成3年同寺31世住職となった。
「露質浮世 七十五年 只麼志行 桃源暦然(露のようなつたない世だが、75年、ただ志のままに行ってきた。桃源郷はほれ、ここだ)」。本堂には萩野氏が門弟や後世のために遺した「遺偈(ゆいげ)」、微笑みをたたえた遺影、多数の供花が供えられた。
通夜は長光寺(飯能市下直竹)の鈴木得常住職が導師を務め、吉田行男葬儀副委員長の挨拶で開式。大久保市長が弔辞を読み、遺弟の萩野伸治氏、平沼雅義葬儀委員長が参列者に感謝を述べた後、焼香が行われ、長嶋氏、原氏は揃って祭壇の前に立ち、萩野氏との別れを惜しんだ。また、本堂前に設けられた焼香台には多数の弔問客が列を作った。
▽大久保市長の弔辞
方丈様がご逝去なされたことは私に、そして飯能市にとっても痛恨の極み。私は市議時代から大変懇意にさせて頂き、私の事を“勝ちゃん”と呼んで頂いた。方丈様の限りないお力添えがあったからこそ、今の私があると言っても過言ではない。
厳しかった市長選の際にも温かい教えを賜り、当選後の初登庁の日には、市役所玄関前の最前列で私を迎えて下さった。東京スカイツリーにご一緒した際には、世界一のタワーから飯能方面を望み「日本一の飯能にしたい」と方丈様に決意を誓った。
広い視野で世間を見渡す洞察力、先見力を持ち、寺の再興にも尽力され、能仁寺は市外・県外からも素晴らしい評価を受けている。また、新聞記者時代からの親交も大変広く、巨人軍の長嶋終身名誉監督をはじめ、原前監督、そしてソフトバンクの王元監督とも親交があった。
スポーツ界だけではなく、政財界の方々との親交も深く、飯能製作所取締役、埼玉県仏教会会長など数々の要職を務め、仏教の信仰や社会貢献にも熱心に取り組んだ。
方丈様を一言で表現すると、失礼ながら「心優しいわがまま」という言葉が思い浮かぶ。一見威張っているように見えがちだが、内面は本当に優しい心を持っている。
私の女房がやっている店に「勝ちゃん、うどん食べに来たよ」との優しい声、一緒に酒を酌み交わした事を私は一生忘れない。
「勝ちゃん、飯能は日本一になったね」と言ってもらえるよう、飯能の貴重な宝である能仁寺・天覧山とともに我がまちふるさと飯能の発展のために全身全霊を捧げる事を誓う。私の大好きだった方丈様のご冥福を心よりお祈り申し上げる。